昭和46年4月15日夜の御理解    入力者 大坪 謙一


御本部参拝、えー同じですけど、いつも同じですけど本部の方でここえ(?)もうその 全部頂いて帰ってきてから(京都社?)からでます(?)の(新館?)だけは、あーいつも読んでも、読まんでも外でかならず買ってくることにしてますから、まぁそれとこれと合わせたらこんなん沢山のまぁ新しい書物が。

しかしそれはあの、見てたらそれだけでもなんか疲れるような感じでしょうかね。
これだけの本をまぁとても大祭から大祭までに読み上げ、読みもしませんし、また読みも見ませんけれど。あんまりこの頃の、おー御道の信心の中にはあんまりお粗末が多いすぎるよる。ある人が「金光教の書物が少ない、書物がない」と言われたんです。

大きな(体制?)した。例えば大きなお粗末はない。小さい本ばっかりだといつも言われておりますけれども。それも私は多いすぎるくらいに思うですね。実際に。
んーそれを読んだからというて(?)しまってからというて、おかげ頂くのもないですから。こりゃその(?)が分かって、まぁ(    ?     )信心の詳しいのはこういうことなら良いですけれども。

これによっておかげを頂こうなんていうことは、あー昔の話で甘木を反乱してきたために、かえっておかげが頂けんくなったという感じがする。とにかくもうこりゃもう( ? )の二つ覚えでもいい本当な事が分かってその事に焦点をおいた日々。
んー焦点をそこにおいての信心の稽古ができるなら、もうそれが一番ありがたい。

そのありがたいというその心でまた勉強をしたい。そのありがたいという心で御用させてもらう。ということにならんと言わば(四角転倒?)というような感じがする。
御用を頂けばおかげになる。御用させてもらやぁおかげになる。えー私の場合には(?)本当にあいすまんから御用させてもらう。ありがたいから御用させてもらう。勿体無いから御用させてもらわなければおられないというありがたいから、あいすまんから、勿体無いからということでまず分かってからの御用でなかにゃいかん。

ね、そのだから御用は( ? )。ありがたいから御用しよる。このくらいの事ならさせてもらわにゃと思うから、どうせさせてもらえるんだから(?)。御用させえもらやぁ おかげ頂く、もうさせえてもらうおかげを頂くために御用しよる。というような事柄で、うずまっておる本なんです。

ね、ですから私はそういう風に思うんですがね。んー先ほども熊谷さんからお届けがあったことですけれど。お互いが大きなおかげを頂かして頂きたいという願いをもつならやはり大きなおかげいわいるおかげの(?)なきゃならんが、そんなら少しでもましな、少しでも大きな祈りが実感としてできるようになるという事なんです。

ね、世界中の事を願う。願う。それは言葉で羅列するうだけなら誰でもできます。
けれども本当に初代の信心の事まです。世界真の平和。世界氏子のその助かるという事をです。言う事はやすいけれども、果たしてそれが実感として祈れれるようにならなければ、世界を祈ったことにならんと私は思う・・・。

三代金光様にある新党新聞の記者が「金光様あなたの祈りの中心にあるもの、なにを願っておられますか?毎日毎日もう何十年間という間ここにお座りっきりだそうですけれども、どういう願いの基にお座りになられますか?今の内容を聞かせて下さい」と言うて、まぁおうかがいをした時に金光さまがおっしゃったそうですね。「はい、世界の真の平和を願います」とおっしゃった。「世界総氏子の身の上安全を願います」とおっしゃった。

それでその新聞記者がですね、ビックリしてから「それはあまりもの大手な事ですから、もう少し具体的にお話下さい」と。そしてら金光さまがおっしゃったそうです。
「大は小を叶える」とおっしゃった。もう本当にその一文なんですよ。ね、私が世界平和の事で一生懸命磨いたらもう日本のこと願わんでも、ね、言うなら教団の事は願わんでも、皆さんのことは願わんでも、ね、その中にあるのです。

けれどもそれが、なんとはなしにそらぞらしいもの。ね、それが実感のないものであるからこそまず自分のことから一生懸命願えというわけ(?)。まず痛いなら痛い、痒いなら痒いと言う事をですそりゃ真剣に繰り返し繰り返し願わして頂くうちに心が少しずつ開けてくる。ね、本心の玉を磨くものだ。日々の改まりが大事だと、その本気で改まることに言わば磨く事に取り組ませて頂いておると、ね、段々段々自分の心が空しゅうなってくる。段々すりへらしたくなってくる。

磨く事によって、改まることで、ね、それが少なくなるにしたがって祈りが反比例(?)願いというものは大きくなってくるでです。これはもう私の実感です。
最近私は世界氏子の言わば本当に最近思う事は、金光さまが「大は小を叶える」とおおせられたが本当にそういう大な大きな事が願える信心にならせて頂く事を願いとさせて頂いておりましたらこの頃段々それが実感としてね、とにかく願わなければおられなくなってきた。最近なんかも朝晩の御祈念に世界中の氏子の御霊の事が願えれるようになってきた。

私が願ってから世界中のもうどれだけあるか分からないほどのです、例えば亡くなった御霊たちが助かるとそれは分からない事。けれども、けれども私一人でも実感として本当に祈れれるものがあるという事をです。天地が喜んで下さるそこに度々おいさみを頂く。
ね、こりゃお神さまの前、天地の親神様の金光大神大利を申しあげる時にその事を願う。

御霊様の前ではまたここの御霊を通して世界中の氏子の御霊の事を祈らせてもらう。ね、「はぁらぁもうこれはいよいよありがたいことになってきたよ」と自分で本当に勿論  もっともっと深いものになって行かなきゃなりません。世界中の言わば、もう本当に人種差別とかなんとかと思われる。もう黒であろうが白であろうがそれこそ願わにゃおられん。世界中の人間氏子の立ち行きを願わなければおられない。ね、(途中切れ・・・)